最新の投稿
「死ぬ前にしたい10のこと」-遺伝性卵巣癌
- 2011.06.1
卵巣にできる悪性腫瘍には、10歳から20歳代を中心に発生する卵巣胚細胞腫瘍と40歳を過ぎた頃から発症する上皮性卵巣癌がある。若年者の卵巣腫瘍の頻度はかなり低いが、時として進行が早く患者、家族に悲劇を生む。早期発見ができた場合は弱年発症という性格から子宮温存を目指した治療が可能となるが、進行すると他臓器転移も来たし、手がつけられなくなる。
カナダ映画「死ぬ前にしたい10のこと」は、突然卵巣腫瘍に罹患した主人公アンの心の葛藤を描いた物語である。アンはもうじき24歳になる。17歳のとき、コンサートで知り合った男性と初めてキスを経験、好きになった勢いで結婚、すぐに長女ペニーを出産した。矢継ぎ早に19歳のとき次女パッツィーも出産、今は大学の夜間の清掃婦をこなし、生活に追われながら不規則な生活の中で何とか家系を支えているようだ。夫はそうしたアンにとても優しいが、日雇い労働者で収入は一定せず、最近やっとプール作りの土方仕事を手に入れたばかりであった。こんなに早く結婚したのは夫婦仲の悪い両親の元で育ち、愛に餓えていたのかもしれない。短絡的で人を愛せない母を反面教師にして子育ても立派にこなしてきた。父の犯罪は何であったのか知らないが、朝からバーボンを飲むようなアル中で10年近く刑務所暮らしをしている。彼女は、貧乏な中、母を否定しながらも、母の家の庭のトレーラーで家族四人仲良く生活しており、まじめに一生懸命生活していた。その彼女が突然、卵巣腫瘍に罹患した。悪いことに腫瘍は胃、肝臓にまで転移している。残された時間は少ない。
アンの担当医は患者心理を熟知した人間味あふれる医師であった。アンは激しい下腹部の疼痛と吐き気で病院に運ばれるが、超音波検査、腫瘍組織の生検を経て得られた最悪の結果を宣告するために選んだ場所は、夜の病院の、人気のなくなったロビーであった。夫を呼ぶことをことさら拒絶するアンの横にさりげなく座ったこの医師は淡々と事実を述べる。「卵巣の両側に腫瘍ができている。君の腫瘍細胞は若すぎて進行が早い。これが20年遅ければ、進行もゆっくりで手術で取り除けるんだが、、、」「こんな場所での話し、おかしいと思ったわ」「こんな話は面と向かってできないじゃないか。死の宣告は目を見ながらはできない」。当惑したアンがタバコを吸いたいというと、代わりにポケットに忍ばせていたキャンディーを渡す。キャンディーを口にしたアンは、少し落ち着いた表情に戻る。これが診察室で、対面式に座ったのでは、検査結果を心配して待っている患者には威圧感があって心のやり場がなくなる。特にアンのように生活に追われ、一人で非常な運命の宣告を受けなければならない場合、対面式に座り、機械的に悪性腫瘍の宣告をするのは酷である。大前健一は、そのエッセーの中で、息子と大事な話をするときは、散歩でもしながら話せと書いている。なるほどと思う。「父さんと母さんは離婚するんだ」などと重大事を報告するときには、黄色く色づいた銀杏並木を歩きながら、遠くをみなながらさりげなく話したほうが、聞く側も少しは心が救われるかもしれない。
通院を勧める医師の言葉にアンは、こう叫ぶ。「病院にはもう来ないわ。病院で死ぬのはいや。娘の記憶に残るから」。彼女は医師から吐き気止めと鎮痛剤をもらい、夫にも、娘にも、母にも真実は告げず、運命の日までとにかく自然に生きてみる道を選ぶ。顔色の悪い彼女を心配する家族には「貧血がひどくて」とだけ話して。少したったある日、彼女は深夜、家を抜け出し、人気のないレストランに行き、コーヒーを飲みながら死ぬまでにしたい10のことを書き記す。1.娘たちに毎日愛しているという、2.娘たちの気に入る新しいママを探す、3.娘たちが18歳に成るまで、毎年バースデーのメッセージを送る、4.家族でビーチに行く、5.好きなだけタバコと酒を飲む、6.思っていることを話す、7. 夫以外の人と付き合ってみる、8.男性を夢中にさせる、9.刑務所のパパに会う、10.爪とヘアースタイルを変える。
彼女は、この目標を淡々と実行しようとする。夫も子供もいない時間を見計らって娘たちの18歳までの毎年の誕生日を想定し、丹念に誕生日の母の言葉を録音した。刑務所の父親にも思い切って会いに行った。美容院にも行ってみた。そして、偶然コインランドリーで出会った純粋な心を持つ測量技師のリーと、夫以外の男性と始めて心を通わせ、語り合い、抱きしめあう。アンは極力感情を押し殺して、死までの少ない時間を淡々と生きたが、人は結局一人で死んでいかなければならないことを実感する日々でもあった。アンが比較的平静を保つことができたのは、幸せな家庭に育ったものが体験し得ないような様々な悲しみを23歳の若さですでに体験しており、悲しみの消化の仕方が、人よりも慣れていたのかもしれない。この物語は、冬のカナダ、バンクーバーが舞台であるが、どんよりした曇り空、時折降る冷たい雨が、母親や妻であると同時に、死ぬ前に一人の女性としても生きていたいと願うアンの心の動揺を映し出してくれているようにも思える。この映画は仰々しくない彼女の心の描写が自然で、好きな映画である。
卵巣癌の多くは非遺伝性であるが、5%〜10%は家族性であり、母親、姉妹に卵巣癌患者がいる場合の発症危険率は2−6倍に跳ね上がる。様々な疫学調査から卵巣癌の遺伝的背景は明らかにされてきており、様々な研究がなされている。また家族性乳癌は卵巣癌を合併する場合が多く、発癌遺伝子を共有していると考えられている。一般には卵巣癌の20-30%が子宮内膜細胞診で陽性になることから、これが発見の端緒になる場合もある。大きくなると腹壁から自分の手で腫瘍を触れたり、腫瘍による圧迫症状がみられるようになる。卵巣腫瘍は悪性、良性に関わらず、卵巣腫瘍茎捻転によりねじれたり破裂したりすることがあり、アンの場合のように激痛を伴うことがある。
卵巣癌の悪性度の遺伝的背景に関しても様々な研究がなされている。はっきりした結論は出ていないが、卵巣癌や乳癌で染色体1qに発癌関連遺伝子があることがわかっており、この遺伝子のコピー数の増幅が関与していることが知られている。進行したある種の上皮卵巣癌の50%以上に、染色体1q22にある1.1 Mb領域の遺伝子のコピー数が増幅していることが明らかにされている。卵巣癌患者のDNA試料を調べたところ、手術を施行しても化学療法を実施しても、この領域のコピー数が多い患者は寛快にならないか、なったとしてもその期間がほかの卵巣癌患者と比較してはるかに短いことがわかっっている。 この染色体部位に含まれる遺伝子は34種類知られているが、特にRAB25 遺伝子が注目されている。成人した女性が将来癌になる可能性を予測し、早期に対応できるように、こうした遺伝子をいくつかターゲットにした遺伝子ドックがおこなわれるようになる日はもうそこまで来ている。
人は突然死を宣告されたとき、一体10項目に何をあげるのであろうか。それは、その人の年齢、社会的なバックグランド、家庭の状況などに大きく左右されることはいうまでもない。本稿の締めくくりとして今の私の死ぬまでにしたい10項目を書いてみたい。1.妻に毎日ありったけの言葉で愛しているという、2.妻とまだ見ぬ子供たちの配偶者に手紙を書く、3.妻とたった二人だけで旅行する、4.両親も含め家族だけで何もせず2,3日過ごす、5.好きなだけ映画を見る、6.患者会の仲間でどんちゃん騒ぎをする、7. 今の研究成果を患者さんに還元する、8.自伝を書く、9.郷里別府の観光旅行をする、10.昭和の時代、人々に最も感動を与えた女優高峰秀子と対談する。10年たったら、今度は何をあげるのであろうか。