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「マーガレット・サッチャー、鉄の女の涙」-糖尿病とアルツハイマー病

  • 2012.07.1

イギリスの首相を務めたマーガレット・サッチャー(旧姓マーガレット・ロバーツ)は小さな雑貨店を営む父母のもとに生まれた。町議会議員だった父アルフレッドの姿を見て育った彼女は、大学生の頃から政治家を目指すようになっていく。若くして下院議員に立候補するが、一回目は落選。落ち込んでいたマーガレットに声をかけたのは将来の夫デニス・サッチャーだった。彼のプロポーズにクラッと来たマーガレットだったが、はっきりと自分のスタンスだけは主張する。「家事だけでなく、もっと大事なことがある。食器を洗うだけで一生を終るような女にはなりたくないの」。話は少し出来すぎのように思われるが、デニスは「そんな君だから結婚したいんだよ」と優しく微笑んだ。そして結婚、出産、続いて下院議員に当選と結婚後トントン拍子に事は運ぶ。デニスはまさに「あげまん夫」であった。彼女は男女の二卵性双生児に恵まれるが、映画では、幼い娘との団欒を振り切って国会に行こうとする姿が描かれている。保守党の党首となった彼女は、総選挙で勝利を修め、英国史上初めての女性首相につくことになる。1979年のことだ。映画では少しでも大衆に受け入れられるようにと、「チームサッチャー」の面々が髪型から演説の時の発声法まで特訓を課す様子が描かれている。

 

首相になった彼女を待ち受けていたのは、幾多の解決すべき難問の山であった。いつしか「揺り籠から墓場まで」と称賛されたイギリスの手厚い社会保障は財源難に陥り、高い失業率も相まって、「黄昏の国、英国」とまで言われるようになっていた。また、アイルランドのIRAによるテロの問題、東西冷戦下での舵取りなど、数々の内憂外寒の中で、彼女は毅然とした態度で立ち向かい、いつしか有名な「鉄の女」というニックネームがついていた。アルゼンチンとのフォークランド諸島紛争においても、イギリス領が侵されるや、国内の慎重派の反対を押し切って毅然とした態度で立ち向かい、軍を出動させ鎮圧した。この出動により多くのイギリス軍兵士が帰らぬものとなったが、人の子の母であるサッチャーは、一人一人の兵士の遺族に直筆の手紙を書いている。

 

この頃のサッチャー人気は頂点に達し、支持率75%という考えられない数字を残している。その後3度目の総選挙も乗り切り、サッチャー政権は盤石なものであるかに見えたが、財政改革の切り札として提案した、個人の収入に関わらず課税するとする「人頭税」が国民の不評を買い、それがきっかけで党内分裂が起こり、首脳陣から「貴女では選挙に勝てない」という言葉にすべてを悟ったサッチャーは、1990年、遂に勇退の道を選ぶ。

 

一線を退いたサッチャーは、2008年頃からアルツハイマー病を患うが、現在もロンドンで生活している。映画では、夫デニスの死を受け入れることが出来ずに彼に話しかけながら生きているサッチャーの様子が描かれている。

 

ところでサッチャーがそうであったかは不明であるが、最近の研究から糖尿病患者では、脳血管病態の増悪や脳内インスリンシグナルの変化がおこり、アルツハイマー病の発症が有意に高くなることがわかってきた。また逆にアルツハイマー病では、糖尿病が増悪するということも新たな事実としてわかってきた。

 

アルツハイマー病は、そもそも脳内に過剰に蓄積したアミロイドの塊である老人斑が神経原線維変化を誘導し、神経機能を障害する。遺伝性アルツハイマー病患者ではAPP遺伝子,プレセレニン遺伝子の変異によって脳内の老人斑の蓄積が増加することが明らかとなっているが、患者の大部分を占める遺伝歴のないアルツハイマー病ではなぜ老人斑や神経原線維変化が脳内に出現し認知症を発症するのかはいまだに不明な部分が多い。こうした中で、危険因子を明らかにする試みがなされ、糖尿病や高血圧といった危険因子がアルツハイマー病の独立したリスクであることがわかってきた。糖尿病患者のアルツハイマー病の危険度は、そうでない人の1.9倍と有意に高いが、中でもインスリン治療を受けている糖尿病患者ではその危険度が約4倍にまで跳ね上がるという事実が報告されている。

 

ではなぜそうした現象が起こるのか。インスリン抵抗性に基づく高インスリン状態は糖尿病の重要な病態の一つであるが、インスリンはアミロイド蛋白の代謝に様々な影響を与えていることがわかっている。インスリン分解酵素はインスリンばかりでなくβアミロイド蛋白も分解するが,高インスリン状態ではβアミロイド蛋白の分解量が相対的に低下し、その結果、βアミロイド量が増加すると考えられている。このようなメカニズムが糖尿病とアルツハイマー病といったこれまで結びつかなかった2つの疾患を結び付けている。

 

冷戦時代から東欧の民主化まで、1980年代から90年代にかけて世界は大きく動いた。そうした激動の時代の中で評価は分かれるが、時代を演出した3人の英傑がいる。ミカエル・ゴルバチョフ、ドナルド・レーガン、そしてマーガレット・サッチャーである。そのうち2人がアルツハイマー病を患った。レーガンは妻ナンシーの名前を呼びながら鬼籍に入ったがサッチャーは闘病中である。一国の元首は昼も夜も土曜日も日曜日もなく、おそらく糖尿病に代表されるような生活習慣病や、様々なストレスを抱え込みながら間が流れたことであろう。そうした負荷が彼らをアルツハイマー病へと追い込んだ可能性がある。

 

自分を失い自分だけの世界にのめり込んでいくこの病気にかかった患者自身は、癌などにかかり、今わの際まで苦しみながら死んでいく病気よりはずっと幸せという言い方が出来なくもない。しかし言うまでもなくそれを支える家族の悲しみは計り知れない。何より自分たちとの思い出を一切持たず、計り知れない遠くに行ってしまうからである。

 

映画では、夫が絶えずよき理解者として彼女に寄り添った姿が描かれており、「王様と私」で流れる「Shall we dance?」の音楽のもと、二人仲睦まじく踊るシーンが何度も描かれている。しかし実際にデニスが一体どのような思いを抱えながら彼女を補佐したのかは描かれていない。また彼女が「鉄の女」とニックネームがつくほどの強靭な精神力を何故持ちえたのかも映画からは汲み取ることが出来ず、少しフラストレーションの残る部分もある。

 

田中真紀子の夫田中直樹議員は、防衛大臣となり世間への露出度が大きくなった途端、その言動で世間を騒がせているが、自由奔放に生きる妻を一途に支えている姿が折につけ報道されている。サッチャーの夫デニス、エリザベス女王の夫エディンバラ侯爵フィリップなど超VIPの夫たちは一体どんな気持ちで、自分の妻の名声を捉え、日常を送ってきたのであろうか。凡人であればきっとストレスのたまる日々ということになるが、少なくともこれら夫婦の夫婦不仲だけは伝わってこない。

 

メリル・ストリープは現代を代表する卓越した演技力を持つ美人女優である。「ソフィーの選択」での薄幸のユダヤ人女性、「クレーマー・クレーマー」での離婚を決意するきりりとした母親、「マディソン郡の橋」でのたった3日の恋に生きるカントリーレディーなど、質の違った役を見事に演じ分ける能力は他の女優の追随を許さない。今回の受賞を入れると実にアカデミー賞主演女優賞を2回、助演女優賞を2回受賞し、ノミネートされた回数は17回に上る。一男三女の母である彼女は、比較的感情豊かな女性の役柄が多かった。今回は未だに存命中でサッチャーに対する賛否、好き嫌いが分かれる中で、とても女性らしいのに、公の場では涙や笑などの表情は見せない自分を通した信念の女性を演じるのは難しかったに違いない。今回もサッチャーの演説、立ち振る舞いを見事に盗んで、そこにはメリル・ストリープはいない。いくつもの人生を体験できるこの女優、何とも幸せな人生を送っていることか。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.