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「おおかみこどもの雨と雪」−食物連鎖

  • 2012.10.1

「男はオオカミなのよ。心の中は」−一世を風靡したピンクレディーの唄の歌詞を引用するまでもなく、オオカミは久しい以前から凶暴、卑怯な生き物として人間社会の間で市民権を得てきた。それはグリム童話の「赤ずきん」、「狼と七匹の子山羊」などをみても明らかである。しかし有史以来、一方でオオカミとヒトはうまく共生してきたことも事実である。もともとオオカミはイヌ科の動物である。不思議なことに犬とヒトの掛け合わさった人犬伝説はほとんどないが、人とオオカミが掛け合わされた人狼伝説は、洋の東西を問わずいたるところにあるし、神格化されている地域もある。日本書紀でも、オオ カミのことを神の一種として記載されている。ギリシャ神話にはオオカミ人間が登場するし、オオカミに育てられたとする野生児の報告も古くから枚挙に暇がない。有史以来、善悪は別として、ヒトとオオカミはずっと共生してきたことだけは間違いない。

 

十数万年前、日本列島が東へ移動し大陸と離れて以来、大陸にいたオオカミが日本オオカミに進化し、日本人と共生してきた。しかし明治時代に奈良で生息が確認されたのを最後に、絶滅したとみられている。オオカミがヒトに嫌われてきた最大の理由は、オオカミが肉食動物であり、大切に育てている家畜や時としてヒトを襲う存在であったことによる。従って多くの地域でオオカミはヒトにより捕獲し続けられ、絶滅してきた。それによってヒトを中心とした地域の安寧は保証されたかに見えたが、捕食系(食物連鎖)の乱れにより、環境破壊が起きた地域も少なくない。

 

イエローストーン国立公園でも、オオカミは西部開拓時代から目の敵にされ、遂に1920年代後半に絶滅した。しかしその後、オオカミが獲物としていたシカやコヨーテなど他の草食系の動物が爆発的に増加し、農作物を荒らすようになっていった。更にオオカミが捕食していたコヨーテの死骸のおこぼれを頂戴していたいくつかの動物の生態にも多大な影響を及ぼし、イエローストーンでは、人間以外の生態系は混とんとした状態になった。

 

このような事態は近隣の州でも見られ、ワイオミング、モンタナ、アイオワの三州で、1990年代からオオカミの再導入が行われるようになった。その結果、イエローストーンでは、確かに生物種が増えたことが確認されている。只、当然のことのようにオオカミがヒトを襲い、ヒトがオオカミを射殺しなければならない事件も起きてきている。しかし州政府ではこうした事態には今のところ目をつぶっているようだ。同じようなことはヨーロッパでも起きており、オオカミが絶滅したと考えられるいくつかの地域で、再導入が検討されている。わが国でも、大分でオオカミの導入が検討されたが、日本 においてオオカミは危険な動物種として特定動物指定を受けており、現行法ではオオカミを山野に放逐することはできない。

 

イエローストーンに見られるように、ヒトや草食動物を守るためにその捕食獣を絶滅させたことによる弊害は、ウイリアム・ソウルゼンバーグの「捕食者なき世界」に詳細に記されている。アフリカの平原で殺戮を繰り返すチータ、ライオン、ハイエナ、ヒョウ、アラスカでヘラジカを威嚇するオオカミ、アリューシャン列島でラッコを貪り食うシャチ、カルフォルニアで猫を追い回すコヨーテなどその地域の自然界に君臨する捕食者をわれわれヒトが人為的に捕獲、殺戮を繰り返したことにより生態系の乱れ、様々な弊害が起こったことをしっかりした科学的根拠と共に記している。このような現象は、礒 の片隅でヒトデを排除しただけでも起こる。ヒトデは貝などを食い荒らす困った捕食者であるイメージが強いが、これを人為的に捕獲すると、ヒトデが捕食していたイガイが爆発的に繁殖し、その結果様々な磯の生物が絶滅し、それまで均衡が保たれていた磯の風景が一変することも事実として記されている。たった一種類の生物種の絶滅により、思いもかけない生物種の遺伝子が途絶える。こうしていつか地球上に限られた動物種しか生存しなくなり、いつしか、地球は死の惑星になるのかもしれない。

 

映画「オオカミ子供の雨と雪」(細田 守監督)は、大学生のヒロイン花が、もぐりの聴講生としてさびしげな表情を浮かべながら一生懸命にノートを取る青年に恋心を抱くところから始まる。運送屋で働きながら何とか勉強したいと願い、花の通っていた大学の授業を聴講していた彼は、実は日本オオカミの末裔であった。花が講義の内容を記した本を貸そうと話しかけ、二人は少しずつ愛をはぐくんでいく。やがて花は彼がオオカミ人間であることを告白されても動じることなく現実を受け入れ結婚し、二人の子供を設ける。名前を雪と雨と名付けた。夫は子供を育てるため、オオカミの本性を ひたすら抑えながら懸命に生きていた。ヒトとオオカミの特質を半分ずつ持った子供たちを育てるのは容易ではない。しかしこの映画では、花が常に暖かい視線で子供たちと向き合う姿が描かれていて素晴らしい。自分の目の前で次々に遭遇する問題を、自然体で受け入れながら、母として一人の人間として成長していく様がしっかりと描かれている。

 

ある日夫が理由はわからないがオオカミの姿で近くの川で死んでいるのが発見される。悲嘆に暮れる花であったが、涙の乾く暇もなく、現実に立ち返り、オオカミの本性を時折顕わにする二人の子供は、都会ではとても生活できないと考え、過疎化する村に移住する。三人は築100年の廃屋を譲り受け半自給自足の生活を始める。厳しい自然の中で子供たちはのびのびと育っていくが、思春期を迎えようとする子供たちがオオカミの本性とどう向き合っていくのかが焦点となっていく。

 

そもそもヒトという生き物は、オオカミの性を持たなくても多分に攻撃的で、加えて未だに人格は未熟な同級生の子供たちが、オオカミ人間ということを知れば、どんないじめが行われるか知れたものではない。花は子どもたちをどう導いていったらよいのか大いに悩むが、子供たちはそれぞれの感性を大事にしながら対照的な道を歩んでいくことになる。雪の方はオオカミの本性をひたすら押し隠し、ヒトとの共存の道を選び、友達を持つことに喜びを見出していく。人と交われば傷つき苦しみもする。でもオオカミであっても一人で生きていけはしない。雪はヒトの女性としての性を前面に出し 、傷つきながらも成長する道を選ぶ。一方雨は、男であるということもあるのか、次第に自分の中に潜むオオカミの性に目覚め、人里離れた山奥で年老いたオオカミの主に教えを乞いながら暮らすようになる。ヒトであることを最も重要なことであると決めつけることなく、雨を無理やりヒトの社会に押し込めようとせず、彼の生き様を自然体で受け入れようとする母の姿が美しい。雪はきっと青春期に一度はオオカミの性を持つことを忌まわしく思い、悩みながらも、ヒトとして生き、花のような理解ある夫に恵まれ、幸せに生きることだろう。雨は、益々環境破壊が進む山中で、生きる場所を見つけるのにも苦労するかもしれないが、花の優しい心を受け継ぎながら、仲間のオオカミを見つけ、生きていくことであろう。

 

人は誰も、そもそも少なから異常な形質を抱えた「オオカミ」である。はっきり遺伝子が同定された遺伝性疾患のみならず、様々な心や身体の病を抱えた患者、家族は「異型」である。それを愛せるかどうかは、この物語の花のような排他的にならない広い心を持つトレーニングをするかどうかにかかっている。

 

自分の人生を振り返ると、いつも心配顔の母がいたように思う。小さい頃にしつけられた礼儀作法以外、母の教えで有用であったと誇れるものは余り思い浮かばない。むしろ老婆心の塊のような母の言うとおりにして、保守的に生きていたら今日の自分はなかったような気もする。結局母の愛は丁度のこの映画の花のように教える愛ではなく、見守るだけの愛のような気がする。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.