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「フェイシズ」-相貌失認
- 2014.02.1
ヒトの顔については奥が深い。顔の筋肉には、前頭筋、眼輪筋、口輪筋、広頚筋などが複雑に絡まりあい、表情を作っている。喜怒哀楽というが、人間の感情の表現はこの四つだけではなく、これらの感情が複雑に絡まりあった表情がある。映画「テルマエロマエ」では、日本人は「平たい顔族」と揶揄されるが、そうした、そうした顔をした日本人であっても、複雑な表情があるのは言うまでもない。阿部寛やキムタクの顔は、明らかに日本人の顔の2SDから外れているが生粋の日本人である。キムタクの顔は目鼻立ちが一級品であることに加えて、その配列が優れている。眼の間隔がたった数ミリずれただけでも美男子ではなくなるし、つけ睫毛をしただけでまるで別人のようになる。またサングラスをかけただけで誰かわからなくなることもある。
確かに口髭一つにしても大きく印象が変わる。大リーガーとなった日本のプロ野球選手が、こぞってあごひげを生やすのは「平たい顔族」である日本人の顔に威圧感をつける一つの方法論なのかもしれない。顔はヒトの体の数分の一を占めるに過ぎないが、「目は口程に物を言う」という言葉があるように、特に顔面の形、目や鼻などのパーツの配列に加え、表情筋を中心にした筋肉の動きがコミュニケーションや危機管理(相手が起こっているのか、攻撃してくるのかなどを察知する)に重要である。たとえ眉間にしわが寄っていなくても、長年連れ添った妻が、「今日の女房は手ごわい」と思うのは、こうした表情筋の微細な変化による。
頭部の外傷、脳血管障害や脳腫瘍など、脳の障害により顔の識別を認識する側頭連合野が障害されると相貌失認と呼ばれる病態が起こる。眼、鼻、耳、口など顔のそれぞれの「部品」は認識できるが、顔全体として認識できなくなる状態をいう。意外なことに病気や事故によらなくても、先天的に相貌失認を発症する確率は2%程度と推定されている。これには程度の差はかなりあるが、「何度会っても人の顔を覚えられない」という人も確かにいるようで、そうした人がこの範疇に入るのかもしれない。逆に顔の認識力の極端に秀でた人もいる。私の大学病院のクリーニング屋のおばさんは、名前を言わなくても私が受付に立っただけで洗濯物が出てくるくらい、顔の認識力が素晴らしい。企業の受付嬢に二回目の来訪なのになぜ自分を覚えているのかと時々驚くような能力を持ったものがいたりすることがある。
相貌失認になった患者は、声や着ているのも、体格、振る舞いなどの情報を総合して判断することはできるため、軽い症状の場合は、顔の認識に障害があっても他の機能で代償し、日常生活を何とか送ることができる場合もある。相貌失認の場合、喜怒哀楽などの顔の表情がわかりにくい場合があるため、時としてKY(空気が読めない)といった存在になってしまうこともある。
映画「フェイシズ」(ジュリアン・マニャ監督)は、この相貌失認を扱ったユニークなサスペンスドラマである。アンナはニューヨークのイーストサイドに住む年の頃30歳半ばの小学校の先生である。付き合っている恋人(プライス)はいるが、本当に愛しているのか確信が持てず、結婚に踏み切れないでいる。同世代の友達二人と時折ホストクラブに通ったりして男を値踏みしたりしている。ある夜、いつものようにホストクラブからの帰路、ほろ酔い加減で人気のないの道を歩いていたアンナは、偶然にもニューヨークを近頃震撼させていた、女性を殺してレイプしたあとは涙を流す、という “涙のジャック””と呼ばれる犯人がまさに女性を殺すところを目の当たりにしてしまう。”涙のジャック”ともみあいになり、間一髪のところで逃れ川に落ちるが、その時運悪く頭部を強打してそのまま意識を失ってしまう。何日か生死をさまよった後、九死に一生を得たアンナであったが、意識を取り戻した後、恋人のプライスや女友達の顔の鑑別ができないことに愕然とする。恐らく、側頭葉連合野を強打して相貌失認の状態になってしまったのであろう。しばらくして退院、小学校に復職を果たすが、何と20数名いる子供たちの顔の鑑別ができないことに驚く。困り果てたアンナは生徒一人一人に名札をつけて何とか凌ごうとするが、様々な問題が起こり、校長からこの状態で教師をするのは無理だと休職を言い渡される羽目になる。
プライスとの関係も次第にぎくしゃくしていく。とにかく彼の顔が判別できないのだ。相貌失認の状態が理解できない彼は、次第にイラついていく。二人で行ったホストクラブの騒音の中では、アンナがプライスと間違えた男に馴れ馴れしく話しかける姿を目撃し、彼に激怒されてしまう。彼の不信感が募るが、ネクタイの色で識別しようとしたり、必死で日常生活を送ろうとする姿は痛々しい。結局アンナは顔を判別できないことを受け入れてくれない狭量のプライスと別れ、親身になり何としても“涙のジャック”を捕まえようとする担当警察官のサムに惹かれ、恋に落ちる。
“涙のジャック”の捜査は難航する。なぜならアンナ以外の被害者の女性は、全員死んでいるし、アンナ自身も確かに犯人の顔を見ているのだが、相貌失認のため犯人がわからない。逆に顔を見られた犯人はアンナを抹殺しよう考るはずだが、犯人が近づいてきてもそのことがわからない。アンナは、事件のことが新聞で紹介されたりしたこともあり、犯人から命を奪われる危険性が増し、緊迫感は高まっていく。アンナは精神的に追い詰められ、ノイローゼに近い状態になっていく。サムらの懸命の捜査もむなしく、手がかりは一切なく、迷宮入りしかけていた頃、6件目の犯行が行なわれる。
ドラマはクライマックスを迎える。結局犯人は事件の情報を最も知るサムの同僚の刑事であったが、この犯人にかつて川に落ちた橋に追い詰められたとき、何と追いかけてくる犯人の刑事と守ろうとするサムとの顔の判別がつかない。最後は犯人と打ち合いとなり、犯人は息絶えるが、サムも犯人の凶弾を受け、帰らぬ人になる。
その後しばらくしてアンナは、かつて危険を回避するため、サムが連れて行ってくれた小さな村で教師を始める。少し病状も好転し、生徒も少なく住民も少ないため、アンナにはそこの人々が判別できるようになっていた。そしてそこにはもう一人アンナを守ってくれる心の支えがいた。サムとその村で愛をはぐくんだとき誕生した女の子であった。
ヒトの顔が判別できないというのは大変なストレスだ。相貌失認の患者の判定には、喜怒哀楽の顔の判別をさせるが、重度の患者はこれができない。ヒトは他の動物と比べ表情筋の動きが複雑で、進化の過程で眼輪筋、口輪筋など様々な表情筋の動きを読み取り、他人の心を読み取ってきた。相貌失認はこういう観点から考えると、盲目的に近いことがわかる。
「ブラインドネス」という映画は、突然目がみえなくなり、パニックになるとヒトは時として羞恥心を失いそれまで制御できていた性欲、食欲、社会欲が一気に噴き出すことを教えてくれる。この映画では、病原ウイルスの同定できない感染症で盲目となりそれがパンデミックスとなり精神病院の廃屋に収容された人々の間で、羞恥心を失った少数の男たちが、政府から差し入れられた食料を管理し、金品を差し出させたのち、婦女に体を差し出させる映画である。
人はいつ何時事故に巻き込まれるかわからない。考えてみると、インタネットでの誹謗中傷もこの映画に描かれた状況に似ている。誰がその記事を書いているのかわからない。もしかしたら、隣に犯人がいるかもしれないという緊迫感は同様である。いずれもどこか心が荒廃した精神状況の中で犯人自体が「ブラインドネス」になっているのであろう。ヒトはついつい誰かをいじめてやろうという精神状況に陥りがちだが、自己抑制のカギを握るのは教養と呼ばれるブレーキだ。そのことを旨として生きていきたい。