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「ザ・テノール」-甲状腺がん

  • 2015.01.1

韓国人のテノール歌手ベー・チェチョル(ユ・ジテ)は、オペラの本場ヨーロッパに活動の拠点を起き、「100年に一人の声を持つテノール歌手」と絶賛され、誰もが注目するオペラ歌手となっていた。また、愛する妻ユニや一人息子に囲まれ、幸せな家庭を築いており、前途洋々たる未来が開けるかに思えた。一方、音楽プロデューサーの沢田幸司(伊勢谷友介)は、音楽の質を見抜く力は誰にも負けなかったが、彼が日本に誘致した公演は失敗続きで、借金すら抱えていた。実話に基づいた映画「ザテノール」(キム・サンマン監督)の始まりである。

 

今度こそリベンジを、と目論んでいたところにベー・チェチョルのことを知り、実際にドイツまでその歌声を聴きにいったが、その歌声にほれ込んでしまう。「是非、日本のオペラ公演の主役に」と企画を考える沢田であったが、欧米の有名なオペラ歌手をさておき、韓国人のチェチョルを呼ぶのは日韓関係が冷え切っているなか、大きな賭けでもあった。チェチョルの方もヨーロッパではすでに名声を得ており、わざわざ日本に行く必要もないと思ったが、沢田が用意した共演者はチェチョルの興味をそそるオペラ歌手でもあったため、引き受けることにする。

 

日本での公演がはじまる。予想に反して彼の評判を聞きつけた日本のオペラファンが多数入場し、公演は大成功に終わる。打ち上げの席で沢田は辛い生い立ちの中で音楽に救われてきたことが、音楽プロデューサーの道を選んだ理由であることを打ち明けるが、彼の実直さがチェチョルの心の琴線に触れ二人は意気投合する。彼の声を聴いた日本の他の音楽プロデューサーが今後チェチョルの日本公演を仕切りたいと申し込んでいたが、チェチョルは沢田に頼むことを確約する。

 

気を良くしてヨーロッパに戻ったチェチョルであったが、次の定期公演「オテロ」の練習中にとんでもないことが起こる。チェチョルがリハーサル中に突然意識を失い倒れてしまったのだ。検査の結果つけられた診断は甲状腺がんであった。直ちに行われた手術でがんは摘出され、一命はとりとめたが、その代償は大きかった。声帯を動かす神経である反回神経、横隔膜を動かす横隔神経の周囲にがんの浸潤があり、それらの神経の一部を摘出したというではないか。

 

術後、片方の反回神経が切れているので声帯はうまく動かず、声が漏れる。横隔神経が切れているので片方の横隔膜が動かず肺活量が極端に落ちる。とても歌える状態ではない。幸福の絶頂から絶望の淵に転がり落ちたチェチョルは、ドイツの劇団からも解雇され、生計を立てることまで危うくなっていく。

 

この状態をその身を賭して支えようとしたのが他ならぬ沢田であった。拒絶するチェチョルをよそに必死でアプローチし続ける沢田の熱意の源には、自身の辛い生い立ちの中で音楽に救われてきた過去があったに違いない。彼は声帯形成術では世界的な権威である京都大学の一式教授を探しだし、手術に導き、何とか声が出せるレベルにこぎつける。術後懸命に妻と発声のリハビリテーションを行うチェチョルであったが、横隔膜の動きが戻らないという決定的なハンデもあり、全盛期の声にはもはや戻らない。

 

それでも沢田は彼を日本の音楽会のステージに立たせようとする。全盛期の自分と比べ余りに惨めな声になった状況の中で、出演すべきか最後の最後まで悩むチェチョルであったが、勇気を出して聴衆の前で歌った歌は「アメージンググレイス」。

 

この映画の出来栄えは完璧とは言い難いが、その中に貫かれている国境を越えた友情や絶望の淵から希望に向かって歩もうとするチェチョルの姿は見るものに訴えかけるものがある。

 

映画の中のオペラのシーンでは、彼の全盛期のCDが吹き替えとして使われているが、そのホップするような声の響き、心に突き刺さるような重厚な声量はまさにアジアの至宝と言われるに相応しい。チェチョルを演じたユ・ジテは韓国映画を代表する名優の一人で、今回オペラ歌手を演じるため、歌うときの姿勢や発声の仕方まで徹底して研究し、堂々たる風格で歌う姿はカリスマ性が漂い圧倒される。

 

映画の終わりでチェチョルがしみじみと「僕は声を一度失ってよかったのかもしれない」というシーンがある。彼は2008年から歌うことを再開し、様々な音楽活動をしていると報じられている。オペラの主役を務められるはずはないが人生のどん底を知った男こそ伝え得る歌心があるに違いない。

 

甲状腺がんにはその組織型から最も頻度の高い乳頭がんをはじめ、濾胞がん、悪性度の強い未分化がん、髄様がんなどがある。甲状腺がんというと広島や長崎の原爆、チェルノブイリ事故によって発生し広く注目されるようになった。特にチェルノブイリでは原発事故の後、小児に甲状腺がんが多発したことは有名である。福島の原発事故に付随して起こるかもしれない甲状腺がんは現在検診が行われているが、放射線量と発がんとの関係には様々な学説があり、今後どのような状況になるかは未知数である。

 

髄様がんではその20%が遺伝性で起こる。常染色体優性遺伝を呈するRET遺伝子の変異によって起こるタイプは、30-50歳代に好発するため、遺伝子診断は重要である。予後は遺伝性に起こる方が良好で、10年生存率は、孤発例では40%、遺伝性のものでは80%とされている。チェチョルの場合は映画の中では悪性度が強く神経にまでがん細胞が浸潤しており、神経を切断せざるを得なかったことになっているが、最も悪性度の強い未分化がんは60歳を過ぎて起こることが多いため、最も頻度の高い乳頭がんであった可能性がある。映画の中でも楽屋で甲状腺の腫瘤を触れていぶかしがるシーンがあるが、次々に公演依頼が舞い込む中で忙しすぎて病院に行けず、手遅れになった可能性がある。

 

甲状腺がんの症状としては痛みを伴わず喉のあたりにしこりを触知するケースが多い。従って無自覚無症状の状態で、健康診断で超音波検査を受けて偶然発見されることが多い。嗄声やのどの痛み、嚥下障害がみられることがあるが、これらはかなり進行したケースということになる。

 

反回神経は解剖学的には、脳幹の神経核から枝分かれして頭蓋内から下降するが、一度そのまま声帯の横を素通りし、胸郭内に入り、左側では大動脈弓、右側では鎖骨下動脈の部分で折れ返り、食道の両脇をたどって上行し、甲状腺の裏側を通ったあとに声帯の筋肉を支配するという極めてユニークな走行をしている。このため、その経路のどこで障害が起こっても反回神経麻痺が発生しうることになる。頸静脈孔腫瘍、肺がん、食道がん、縦隔(じゅうかく)腫瘍、乳がんなどの縦隔リンパ節転移、弓部大動脈瘤など様々な腫瘍、病態が原因となる。前述のように解剖学的な問題から、特に甲状腺がんのみならず、甲状腺関連の手術にしばしば合併するトラブルが反回神経麻痺である。医原性にこの神経が切れてしまうものから、一過性に麻痺し、時間とともに回復してくるものまである。

 

発声時には左右の声帯が中央方向に近寄って気道が狭まるので、呼気により声帯が振動して声が出る。嚥下時には、嚥下したものが気管に入り込まないように左右の声帯が接触して気道を完全に閉鎖する。これらの動作を司る反回神経が麻痺すると、息がもれるような嗄声や、誤嚥、むせといった症状が起こることになる。 通常片側の麻痺が多いが、両側の反回神経が障害されて左右の声帯が中央付近で麻痺して動かなくなると、気道が狭くなるため呼吸困難や喘鳴が起こる。

 

テレビで「人生を決めた一曲」という特集があったりするが、かつて多くの人がチェチョルの歌声に芸術性を感じさせていたが、今はその歌声に人生を感じる人も少なくないであろう。ショーペン・ハウエルは言っている。「音楽は説明のいらない唯一の芸術である」。きっと彼のコンサートは説明のいらない感動を呼び起こしているのであろう。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.