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「セッション」-サディスト
- 2015.10.1
熊本大学大学院生命科学研究部、神経内科学分野 安東由喜雄
人間は、人に胃潰瘍を起こさせるタイプと自らが胃潰瘍を起こすタイプに分かれる。映画「セッション」(デミアン・チャゼル監督)は前者のタイプ二人の壮絶な心のぶつかり合いを描いた秀逸なドラマである。
アンドリュー・ネイマンは小さい頃に両親が離婚し、今は父と暮らしている。これといった取り得はなくどこか鬱屈したところのある19歳の青年だが、小さい頃から続けていたドラムには自信があり、将来はジャズ・ドラマーとして身を立てて行きたいという思いが人一倍強かった。彼はアメリカ一の音楽学校、シャッファー音楽学校の門を叩き、フレッチャー教授の音楽授業を受けることになる。ドラムを叩かされたネイマンは冷たい視線は受けたもののフレッチャー教授の目を引き、彼のスタジオ・バンドに招かれることになる。この頃、以前から恋心を抱いていた映画館の売店でアルバイトをしている大学生のニコルにも告白をして、順風満帆な人生が始まるかに思えた。いよいよ練習が本格化する。それは怒鳴り声から始まった。泣きながら退場させられるバンドメンバー。そんな中でドラムのテンポがずれているという理由でアンドリューは椅子を投げつけられ、遂にはリズムを取りながら頬を殴りつけら続け、遂に涙を流してしまう。
アンドリューはその後も言葉と行動で暴力を受けながらも、必死で教授について行こうと練習に没頭しようとする。だから大好きだったニコルとも別れる決意をする。彼のドラム技術は次第に評価されるようになり、三人いるドラマーの中で首席ドラマーにのし上がるが、練習は相変わらず過酷であった。極端に早いテンポでのドラム演奏を要求しフラフラになるまで何時間もひたすらドラムを叩かせたりするが、アンドリューただ一人が手から血を流しながらも最後まで演奏し続ける。
コンペティション当日がやってくる。会場へ向かう途中、バスが故障してしまい、彼は集合時刻に遅刻してしまう。レンタカーで会場に急ぐことにするが、不注意で事故をおこし、血まみれになりながらも何とか舞台にたどり着く。しかし、打撲を受けた手は思うように動かず、ついにはスティックを落としてしまい、演奏は惨憺たる結果に終わる。こんな満身創痍のアンドリューに教授は、「お前はもう終わった」とののしるが、この言葉に抑えていたこれまでの感情が爆発し、衆目の前で教授に殴りかかり、会場を出ていくことになる。
この騒動を期に、アンドリューは音楽学校を退学処分になる。彼の父親は弁護士に相談し息子の地位保全の道を探るが、教授について調べた弁護士は、以前にも教授からパワハラを受け、鬱になったり自殺したりした学生がいることを知らされる。弁護士はこれを学院に報告することを父子に進め、最終的にアンドリューは書類に匿名でサインする。この行動がもとで、フレッチャー教授は音楽学校を辞めることになる。
何か月かの時が流れる。退学したアンドリューには平凡だが空虚な日々が訪れる。夜、街を歩いていた彼の視線に、あるジャズ喫茶が止まり、看板に「演奏者、フレッチャー」と書いているではないか。二人はそこで再会する。フレッチャーはアンドリューを酒に誘い、飲みながらしみじみと話を始める。フレッチャーは語る。「自分が学生を罵倒してきたのは確固たる信念があったのだ。夢はあくまでレジェンドになるようなミュージシャンを育てることだった。褒めることは才能を潰すことだ」と優しく語りかける。フレッチャーはさらに続ける。「ある音楽祭でバンドの指揮を執るが曲目は君が演奏していたものとほぼ同じだ。良いドラマーがいないので参加しないか」と持ちかける。フレッチャーの予想外の心のカミングアウトと優しい言葉に、アンドリューのドラマー魂が呼び起こされ、彼は音楽祭に向かうことになる。しかしそこには大きな落とし穴が用意されていた。話はいよいよクライマックスに向かう。
ドラム席についたアンドリューはフレッチャーの挨拶の言葉に驚く。叩いたこともない曲から始めるというではないか。必死で演奏するアンドリューであったが結果は惨憺たるもので、楽団員からもフレッチャーからも公衆の面前で罵声を浴びせられる。それはまさしく、アンドリューの弁護士からの上申書で学院を首になったフレッチャーのアンドリューへの復讐に他ならなかった。しかし、そこからアンドリューの最後の逆襲が始まる。彼はフレッチャーの制止も聞かず、最も自信のあるスタンダード曲、「キャラバン」を叩き始める。最初は不承不承であった他の楽団員もドラムの乗りの良さに演奏を始める。激しいドラムさばき。それは、アンドリューへの憎しみ、二コルを失った虚しさ、学院の退学と彼の錯綜した思いの爆発であった。予想外の展開に、最初は抵抗していたフレッチャーだったが、彼のドラムを通して投げつけられる感情を受け止めるかのように、「うん、うん」と何度も何度も頷きそして二人は思わず微笑み見つめ合う。それはフレッチャーが求めていた音楽に満足し、一流のミュージシャンとして初めて認めた瞬間かもしれない。まさに観ているものは天才の誕生を見た思いがする。この二人の天才はこのあとどうなったのかは知らないが、とても平穏無事な音楽人生を送ったとは思えない。
この映画の臨場感、感情の暴発には何度も息をのむ思いがする。このドラマは、チャゼル監督自身がドラマーを目指していたが、スパルタ練習に心が折れ、結局挫折した経験をもとにして作られている点も興味深い。
坂東玉三郎は言うまでもなく歌舞伎界をしょって立つ女型で、その演技は品格にあふれ、名人の域に達しているとされる。しかし彼は、梨園の出身ではなく、女形としては長身であることなど不利な条件がそろっていたが、そんな中で現在の地位を築きあげた。そんな彼には独特の人生感がある。「サワコの朝」という対談番組を見ていて引き込まれた。
彼は、三つの印象的なことを述べている。最近の人は、怒らない代わりに愛さなくなってきた。人間同士の衝突をマニュアルで防いでいる。誉め言葉には気をつけなければならない。最初の言葉は自分の子供のことを考えると納得がいく。他所の子供をなかなか親身になって叱れない。下手をすると親が殴り込んでくるかもしれない。医局員に腹が立つことがあるのは、きっと愛があるからだろうと思っている。人間同士の衝突をマニュアルで防ごうとするのも最近の若者の特徴かもしれない。世の中から頑固者が消え失せ、表面的な付き合いが増える。衝突しないようにセーフティー・ネットを張る。これが最近の傾向だというのだ。
玉三郎は、誉め言葉には気をつけてきたという。芸の世界は厳しい。褒め言葉に有頂天になっていると決して進歩は見られない。下手をすると唯我独尊となり、芸域の進歩がないという訳だ。いい得て然り。まさにフレッチャー先生は稀有の芸術家であり、玉三郎に繋がる一流のミュージシャンとしての強い信念が彼を攻撃的にしたと思われるが、そうした境地とは紙一重の、そもそも人間が備え持っている「意地悪さ、冷たさ、激しさ、暴力性」が彼の行動を複雑にしている。
一般的には、フレッチャー先生の様な気質、振る舞いをする人間をサディストと呼ぶ。この言葉は18世紀のフランスの貴族・マルキスデ・サド侯爵に由来している。侯爵は暴行、乱交など世の中を騒がせた罪で人生の半分近くを牢獄と精神病院で過ごしたらしい。サディストとはそもそもは性的な要素をはらんだ言葉だが、自分が相手を苦しめ、その様子が楽しいと思う感覚を意味する場合が多い。
現代社会の中で、フレッチャー先生のような振る舞いをする指導者は非難されるしかない。しかし確かに玉三郎が言うように、人と人が摩擦を避け、「事なかれ主義」に流れ、マニュアルでトラブルを防ごうとする社会が正しいとなると、軟な心しか持ち合わせていない人間が増えてくる。それはある意味、憂うべきことと言わざるを得ない。