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「パッドマン」 ー生理用品開発の歴史ー
- 2019.01.11
「男女共同参画」が叫ばれはじめて久しいが、文明開化の明治以来、わが国の女性が社会に進出するためには幾多の困難があった。動きづらい和装から洋装に代える必要があったし、下半身を露にしないためには、腰巻文化からパンツ(ズロース)文化に脱却する必要もあった。
昔の日本女性の下着といえばもっぱら腰巻であったが、性器をスッポリと覆わない分高温多湿な夏をすごさなければならない日本の女性にとっては陰部が蒸れず好都合であった。明治以降もしばらくはこの「文化」が続いたが、 昭和7年、白木屋デパートで起こった火災が「腰巻文化」を「パンツ文化」に変革させたといわれる。火災のなか、和装の女店員は逃げ惑い、ビルからロープを伝わって避難する際、下半身が露になることを気にして片手でしかロープを掴まなかったため、14人が転落死したのである。この出来事の後、わが国には洋装やズロースが急速に普及した。
さらに、女性の社会進出には生理中でも安心して働くことができる環境作りが必要であったが、現在広く用いられている生理用ナプキンに到達するまでには随分と時間がかかった。中世では民衆の多くはふんどし状のボロ布などが利用されたため不衛生で感染症の危険があったのはいうまでもない。江戸時代になると、紙が庶民の手の届く価格になったため、経済的にゆとりのある女性は和紙を丁字の形に縫い付けたものを使ったという史実が残っている。 日本における生理用ナプキンの普及の歴史はやはりコストパフォーマンスの歴史といっても過言ではない。薄いゴムを用いた防水性のある生理用品は大正時代に発売されたが高すぎてとても庶民には手が届かなかった。現在普及しているナプキンの国産第一号は昭和36年に発売された「アンネナプキン」である。なぜアンネという名前がついたのか。それはユダヤ難民アンネ・フランクが記した「アンネの日記」のなかに次のような記載があったからだといわれている。「月のものがあるたびに、-まだ3回しかありませんが-苦痛で不快で、うっとうしいにもかかわらず、甘い秘密をもっているような気持ちがします。ある意味うるさいことではあっても、心の中でこの秘密を味わう時の来るのをいつも待ちこがれるのはそのためです。1944年1月5日」。体が少女から女性に成長しつつある中で自分に訪れたその変化を、恥じらいと共に正直に書き記したこの記述には、その後彼女がたどった不幸な運命を思うと胸がつぶれる思いがする。現在は機能性を十分考慮したさまざまな生理用品が開発され、女性を取り巻く環境は格段に改善している。 映画「パッドマン 5億人の女性を救った男」(R.バールキ監督)は、インドの田舎で一貫して衛生的で安い生理用ナプキン開発に取り組んだアルナチャラム・ムルガナンサムの一途な半生を綴ったノンフィクション、「ラクシュミ・プラサドの伝説」を映画化したものだが、インド映画らしくコミカルに脚色した部分もあり、大いに楽しめる映画になっている。
インドの田舎の村で溶接工をしているラクシュミは、母、2人の妹、そして新婚の妻ガヤトリと仲睦まじく生活をしていた。そんなある日の夕食時、ガヤトリは突然体調が悪くなり別室にこもってしまう。それから5日間、彼女はその部屋に閉じこもり安静に暮らすことになるが、その姿を見たラクシュミは彼女に生理が訪れたことを悟る。生理についてほとんど知識がなかった彼は妻が汚れた布を干している姿に驚く。「最愛の妻がこんな汚い不潔な布を使っているなんて」。そう思った彼は、恥を忍んで薬局で生理用ナプキンを購入しようとするが、55ルピーという値段(約2000円)に驚く。意を決して買い妻に渡すが、「高すぎるし、これを使っていることが周囲に知られると恥ずかしい」と取り合ってくれない。しかし彼は、職場で同僚がケガをした折、止血するためにそのナプキンを使ってみたところ、その清潔性や有用性に驚く。まじめで勤勉、凝り性の彼は、「市販のナプキンは高すぎる。ならば自分で作ればいい」と考え、早速自家製ナプキン作りに取りかかる。
ラクシュミは、綿や接着剤を使って見よう見まねでナプキン作ってはその都度妻に渡すが、とても満足できるものではなく、結局彼女は協力してくれなくなる。それでもいつか妻を喜ばせようと試作を続ける姿は涙ぐましい。妹たちや女子医学生に頼んでまで自家製ナプキンの改良を続けるが、いよいよ奇人・変人と思われるようになり次第に村の人々から孤立していく。ついに誰一人として試してくれる人がいなくなるが、彼はそれでも諦めず、女性用下着を穿いてやぎの血を詰めたゴム製の人工子宮を取り付け、自転車に乗って性能を調べようとする姿は滑稽で見ていられなくなる。村人の非難の的となってしまったラクシュミは、ひとり村を離れざるを得なくなり、妻の家族にも愛想を尽かされ、彼女を実家に引き取られてしまう。
こんな状況でも彼はナプキン作りを諦めない。それは村を追われ、結果が出なければもう戻れないという切羽詰まった思いと愛妻を喜ばせたいと願うたゆまぬ思いなのであろう。都会に移り住んだ彼は、「ナプキン作りの知識を得るには大学の教授に師事するのがいい」と考え、教授が暮らす教員宿舎で用務員の仕事をしながら可能性を探る。運命の扉は少しずつ開き始める。ひょんなことからナプキンにはセルローズ・ファイバーが適していることを突き止めた彼は、地元の有力者に取り入り90万ルピーという大金を融資してもらい、ナプキン製造機作りを始める。試行錯誤の末、ついに自家製のナプキン製造機を完成させるが、普段からナプキンを使っている女子大生のパリーに巡り合い、生理中であった彼女に彼の作品を使ってもらったところ意外にも好評を博する。
ここからの話はインド映画らしくとんとん拍子に進む。幸運にも彼女の父親が教授をしているニューデリーのインド工科大学で行われる発明コンペに参加するチャンスが訪れたのだ。そして信じられないことに彼のナプキン製造機は見事優勝し大金を得ることになる。彼は、製造機の特許取得を勧められるが、「金儲けのために作ったのではない」と固辞し、代わりに田舎の仕事のない貧しい女性達がナプキンの製造と販売を行うビジネスモデルをインド各地に構築していく。生理用品が買えない女性にとって、「パリー」(ヒンズー語では妖精)と名付けられた清潔なナプキンがたった2ルピーで買えるとあって瞬く間にその製品は評判となり彼の活動は世界中で注目を浴びることになる。
ついに国連からニューヨークでの講演依頼を受け、パリーと共に初めてアメリカの地を踏むことになる。講演の中で安価で便利なナプキンの開発の重要性を、下手な英語とボディーラングイッジでユーモラスに述べ、聴衆を魅了する。
講演を終え、妻の待つ故郷へ帰ろうとするラクシュミを、彼の人間性や一途な男気に惹かれていたパリーは、後ろ髪を引かれながらも止めることなく明るく見送る。英雄として故郷に凱旋したラクシュミを、誰よりも待ち望んでいた妻ガヤトリが迎え入れる。ブラボー!
映画でも紹介されるが、2001年の時点のインドでは生理用ナプキンの使用率はわずか12%というから驚かされる。日本と数十年時代がずれていることになる。インド女性のおかれた現状に疑問を持ち、蛮勇を振るって不撓不屈の精神と行動力で安価な生理用ナプキンを開発したラクシュミの努力にはまったくもって頭が下がる。映画では、インドの封建的な社会をコミカルに描くとともに、踏まれても踏まれても明るくめげない鈍感力、失うものは何もないといった開き直り、そして愛する人を一途に思い続け幸せにしようと突き進む愛の力を描いていて見るものを引き付ける。
インド映画は、決して登場人物がお高く留まらず、こうした自然体の明るさの中でことに当たろうとする姿を描いたものが多く、何とも知れず暖かい気持ちになれる。ラクシュミにはホンダの創業者本田宗一郎の言葉「チャレンジして失敗することより何もしないでいることを恐れよ」と言う言葉を贈りたい。