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「鳥」-ダーウィンの進化論
- 2010.05.1
1809年、チャールズ・ダーウィンは、イギリスで生まれた。200年の時空を経て、現代の生物学は、彼の残した進化論なしでは成り立たなくなっている。ダーウィンの自然淘汰説を突き詰めると、最も進化したヒトは、環境に適応するため余分な機能がそぎ落とされ、合理的に環境に適応した生命体ということになるが、実際に科学者のはしくれとして医科学に携わり、さまざまな病気と関わってきた経験から考えると、進化はかなり偶然のたまもので、われわれの体に備わった機能に、非合理的なものが少なくないことに気づく。太古ヒトが暮らしていくために重要であった機能が、現代の社会生活にそぐわなくなってきていることも要因の一つである。血糖を下げるホルモンがたった一つしかなく、現代の食生活では、食欲の赴くままに食事をすると、糖尿病になること、凝 固系の複雑な止血ネットワークを獲得した弊害で、われわれの血液は放っておくと極めて固まりやすい状態にあり、動脈硬化を抱えた今日の多くの高齢者では、血栓が生じやすいことなどが真っ先に挙げられる。
そのほか、マイナーではあるが不要な機能の最たるものの一つとしては、手掌の発汗が挙げられる。ヒトが今日のように二足歩行を始める前は森に住んでいたが、木々を飛び回り木の実などを採取するときには、瞬時に枝を掴む必要があった。このとき手掌が適度に湿潤していなければ滑り落ちてしまうが、ヒトはこうした瞬時の危機管理のために、手を支配する交感神経の緊張を介して手掌を湿潤させる発汗システムを手に入れた。
しかしそれが現代社会では仇となる。手掌多汗症という必ずしも病気とは言えないような疾患単位があるが、東洋人の約1%に手掌に滴るような異常な発汗が見られるため、日常生活や仕事に支障を来たす一群の人たちがいて疾患として認知されている。我々の体には、暑い時にクーリングする機能として温熱性発汗を起こすメカニズムが備わっているが、これに加えて、緊張したり驚いたりするような交感神経機能が更新する状態が起こると、前述のように手掌のみならず、足底、腋下などから反応性に汗が出る仕組みが備わっている。適度に発汗する場合は問題ないが、上記のように過多に発汗が起こる人も少なくなく、「試験の時に答案が汗で無茶苦茶になったり紙が破れたりする」、「彼女の手が握れない」、「ケーキ職人になりたいが、手の汗が小麦粉に滴り落ちる」、などの深刻な主訴を持って来院する「患者」も少なくない。中には、医者や理学療法士が、「患者を触ると嫌がられそうで不安だ」と訴えてくる こともある。コンピューター・ワークには手掌、指の湿潤は百害あって一利すらない。汗ということで暑さと関係していると誤解している人も少なくないが、あくまで緊張や精神状態の変化が引き起こす発汗である。類人猿のころから現代人に進化するまでの間に、文化、生活習慣の進化のスピードがあまりに早すぎて、身体の機能が進化に追い付いていかないことが原因の一つであると思われるが、ではいったい生物はどのような期間で進化を手に入れていったのかが知りたくなる。
こうした進化の謎を短期間に立証した夫婦がいる。アメリカ、プリンストン大学のグラント夫妻である。この夫妻は、ダーウィンが進化論を打ち立てるもととなったガラパゴス諸島なかの小さな島に住み、スズメほどの大きさのフンチという鳥を長年観察し続けた。この鳥はガラパゴス島一帯に13種類いることが明らかにされているが、200-300万年前にそれぞれの島に住み着いたフィンチが独自の進化を遂げ、体や嘴の大きさ、形に明らかな違いができたとされている。1977
年、この島で大干ばつが起き、植物は枯れ、残された食べ物は大きく固い種子だけとなった。島にいたフィンチは食糧不足のため、25%にまで減ったが、生き残ったのはいずれも大きな嘴をもち、固い種子を砕いて食べることのできるフィンチであった。しかし、1983年、再び島に大量の雨が降るようになると、大きな嘴は無意味となり、少ない食料で大量に繁殖できる嘴も小さく身体の小さなフィンチが主体となっていった。まさにこの現象こそがダーウィンが唱えた自然淘汰説であるといえるが、これほど短期間に見事な実証をしたこの研究に、世界中から賛辞が起こり、一部の教科書にも掲載されるようになった。夫婦は、昨年、 この研究の功績で京都賞を受賞した。
鳥といえば、仮に進化すれば、人を襲うようになるのではないか、という恐怖感を持つ映画にアルフレッド・ヒッチコックの「鳥」がある。彼は、ミステリー映画作りの神様のような伝説の監督であるが、「恐怖というものは、日常の何気ない出来事の中に描かれる」という名言を残している。その言葉は、「鳥」の中に集約されている。鳥が人間を襲う。ただそれだけの話をヒッチコック監督はとんでもない恐ろしいパニック映画に仕立て上げた。弁護士のミッチは、11歳の妹がいるが、誕生日にインコのつがいをプレゼントしようとメラニーが経営するペットショップに立ち寄り注文する。ミッチはぶっきらぼう見えたがどこか魅力を感じ、気まぐれと好奇心も手伝って、週末に届いたインコを持って、100kmほど離れたデボラ湾沿いの寒村にあ るミッチの家に向かう。途中、突然空から舞い降りてきた一羽のかもめがメラニーの額を傷つけて飛び去る。この一件からじわじわと予想もしなかった不吉な現象が起こり始める。何かの前兆なのであろうか。見ているものの予想通り、その翌日、原因はわからないが、カモメだけでなく、あらゆる野生の鳥たちが人間を襲い始め、小さな村は大混乱に陥る。なぜ、普段無害な鳥たちが凶暴になるのか、理解できない住民たちは、怒りのやり場がなく、突然の来訪者であるメラニーに「あんたが来てからこの村はおかしくなった」と詰め寄る。益々凶暴になる鳥たち。ミッチの家も例外ではなく、おびただしい鳥の襲撃を受け、追い詰められていく。ついに運命の夜が訪れる。ミッチは、鳥たちの襲撃を予見して、家の周りの建ててつけを強固にしたり、鳥が侵入しそうな穴という穴を全部塞ぐが、莫大な鳥たちの襲撃にそんな小手先の防備はひとたまりもなかった。静寂な夜がやってくると同時に、無数の鳥たちが、まるでキツツキのようにドアや屋根に穴をあけ始めるではないか。血だら けになりながら、侵入してくる鳥と戦うミッチ、しかし、彼らの戦いをあざ笑うように、屋根を食いつくし、室内に侵入し、ついにメラニーに瀕死の重傷を負わせる。最後は、この家を無数の鳥たちが占拠し、異様な雰囲気が漂う中、ミッチたちは、まるで白旗を上げるように、家を出ていくところでこの映画は終わる。普段は人間に無害なスズメやカラスといった野生の鳥たちが突然訳も無く人間たちを襲いだす。無害な筈の雀やありとあらゆる野生の鳥たちが人間の敵になる構図は自然破壊に手を染める身勝手な人間に対する警告のメッセージと思えなくもないが、この映画が作られたころは、環境問題など全く世間の関心事ではなく、それがヒッチコックがこの映画を作った動機であるとは考えにくい。