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「ヒアアフター」-臨死体験

  • 2011.08.1

「ヒアアフター」(クリント・イーストウッド監督)は映画の冒頭の地震・津波のシーンが余りに衝撃的で、件の東北大震災で被災した方々の心情を慮ってか、封切られて間もなく突然上映中止となった。しかし、この映画は、地震・津波を離れて、伝えるべきメッセージが明確にあり、語るべき映画と思うので、この連載で紹介することにする。

 

マリー(セシル・ドゥ・フランス)はパリで暮らす美人テレビキャスターであり、テレビ局看板の報道番組のアンカーマンとして活躍している。彼女は頭の切れや時事ニュースの討論能力などでは男顔負けの力量を発揮し人気を得ていた。そんな彼女は、あるときパリを離れ、恋人とバカンスを過ごすため、東南アジアの美しい海岸沿いの町に行く(この物語のモデルはスマトラ沖地震のようだ)。久々に喧騒を離れ、ゆっくりと時間が流れる。しかし海岸沿いの商店街で買い物をしていた彼女は、突然の大地震に遭遇し、大きな津波に呑まれることになる。彼女は波の中で必死にもがくうちに仮死状態になるが、運よく救い出され、人工呼吸で息を吹き返す。間もなく全身状態は回復するが、彼女は生死をさまよった時に見た映像が頭を離れなくなる。帰国後、彼女の精神状態に異変が起こる。キャスター登板中にもその映像が突如出現するようになり、次第にエスカレートしていったのだ。ついにはオンエアー中にも言葉がまとまらず仕事が手につかなくなってしまう。番組の進行にまで支障をきたすようになった彼女は、同僚の勧めもありしばらく休暇を取ることにする。どうして自分がそうなってしまったのか、途方に暮れる一方で、自分が臨死状態の中で見たものは一体何であったのかを知ろうと蠢く。
サンフランシスコには、死者と対話ができる超能力を持ったジョージ(マット・デイモン)が、その力を利用して稼ごうとする兄の思惑をよそに、自分の超能力を忌まわしいものだと考え、工場で安い賃金で肉体労働をしていた。彼は、とにかくその特殊な能力を捨て去り、「普通の人間」として普通の喜びを味わいたいと願い行動を起こす。気分転換のためか料理教室にも通い始めるが、そこで知り合ったメラニーに好意を寄せ、彼女もまたジョージに興味を持つようになっていく。あるとき、ジョージの超能力を知ったメラニーは死んだ父親に会いたいと願い、彼に父に合わせて欲しいと懇願する。不承不承ながら彼女の父親を霊の世界から呼び出すことにしたが、そこに現れた父親は、昔彼女に(性的?)虐待を加えていたことを謝り続けていた。彼女は忘れ去りたかった記憶が突如として蘇えり、ジョージの前で過去の悲惨なプライバシーが暴露されたことにも耐えきれず、彼の元から去っていく。途方に暮れ精神的にも追い込まれたジョージは、何もかも捨てて自分の好きなディケンズの生まれたロンドンで、新しい生活を営もうとサンフランシスコを離れることにする。
一方、ところはロンドンである。麻薬中毒の母をもつ双子の兄と一緒に暮らすマーカス(ジョージ・マクラレン)は、心労はあっても母を愛しており、兄弟力を合わせ、母の面倒を見ながら何とか仲良く暮らしていた。母の保護観察士がやってくると、母が依然として麻薬を吸っていることを必死で隠し、何とかして母を守ろうとしたりする。ところがその兄は買い物に行く途中、不良に絡まれたことが原因で突然、交通事故で亡なってしまう。一人きりになったマーカス。保護観察士は母には保護者としての能力がないと判断し、マーカスは全く知らない里親に預けられることになるが、引き取られた家では里親と打ち解けず、ふさぎ込み、深い闇の中で心を閉ざしてしまう。マーカスにとって、兄のいない喪失感は例えようもなく、死んだ兄に、もう一度会いたいという切なる願いがエスカレートして行き、死者を呼び起こしてくれる霊媒者を訪ね歩くようになる。インターネットで霊媒師を探し回るうちに、ジョージの兄が作っていたホームページに行き当たり、ジョージの顔写真を覚えていたマーカスは、ロンドンにやってきてディケンズの博物館を訪ねたジョージと偶然にも巡り合うことになる。結局ジョージは懇願するマーカスの願いを受け入れ、霊界から兄を呼び出し、マーカスに兄の「未来に向かって生きるように」というメッセージを伝える。マーカスはその出来事によってやっと未来に向かって歩み始める出発点に立つことが出来るようになる。
その頃マリーは臨死体験を調べ上げ、その成果を本に書き上げ、出版記念会ロンドンをロンドンで開いていた。三人の人生はそれぞれ全く独立しているが、それが複雑に絡み合い話は展開していき、最後はそれぞれが一筋の光を見出し、希望を持って生きようとするところでこの映画は終わる。
臨死体験とは考えれば考えるほど不思議である。日本でも海外でもこうした体験を綴った本は枚挙にいとまがないが、いくつかのパターンに集約することができる。「三途の川を渡っていた」、「闇の中で光が見えた」、「死んだ肉親と会話をした」、「お花畑が見えた」など洋の東西によって生活習慣や宗教の違いが反映されるが、その体験は本質的には意外なほど似通っている。臨死状態における脳の活動性の変化は、死亡する直前に脳の特定の部分が活性化されるのではないかという考えがあったが、体型だった解析はなされていなかった。
ジョージ・ワシントン大学医学センターの研究グループは、この問題に取り組むため、様々な疾患でまさに死亡寸前で生還した患者の脳波を検証した。解析してみると死に最も近づき血圧がほとんどゼロになったとき、丁度ろうそくの火が消える前に一瞬明るく輝くように、一過性に活発な脳波が出ることが明らかになったという。この脳波の出現は長くても数分であるが、覚醒時と同じα波、β波が一時的に検出できたという。臨死状態から生還した人が、死に近い状況であるにもかかわらず見た映像をしっかりと記憶しているのは、脳が機能を失う前に最後に活発な活動が誘起され、それが記憶され、生還とともに蘇った可能性が高いと考えられる。
では何故このような現象が起こるかだが、これにはいくつかの学説がある。人間の脳はある状態になると幻覚症状を起こすような プログラムが予めD N A に組み込まれており、死亡する直前に脳が酸素欠乏状態になると脳細胞内にセットされていた幻覚症状を起こすプログラムが自然に作動するとする説、体や精神が極限状態になると分泌されるエンドルフィンが過剰に分泌されるとする説、低酸素により脳の代謝が変わるとする説、大脳皮質の角状回と呼ばれる部位は体や空間の認識、論理的な順序付けをコントロールする脳の中でも複雑な部分であるが、これが一時的に活性化されるとする説などである。いずれも具体的な裏付けはなされておらず、依然議論の中にある。
この映画は、失意のどん底にあった、境遇も年齢も異なる三人が最後には希望を取り戻し、新たな人生を歩みだすのではないか、という静かな期待感を持たせて終わる。この映画はクリント・イーストウッド監督の作品にしては意外にも比較的評価が低い上、東北地方で多くの被災者が苦しむ中、冒頭の津波シーンがあまりにリアルすぎるとして突然上映中止になったいわくつきの作品である。確かに私自身も東北で被災した方々の依然として厳しい状況を思うと、冒頭のシーは強烈すぎるようにも思うが、イーストウッド監督の持つ、人間に対して肯定的なメッセージが今回の映画においても変わることなく発信されていて、決して悪くない映画であると思う。嘆いてばかりいずに、どんな状況においても与えられた一回しかない人生に感謝し、生きることの意味をかみしめるべきだと彼は主張している。なんとなく勇気が湧いてくる映画である。

Copyright© Department of Neurology, Graduate School of Medical Sciences, Kumamoto University.